愛子が峠国ホテルのベッドの上で目を覚ましたのは、午後6時前。最近眠れなかったせいか、ぐっすりと眠むれて目覚めはむしろ良かったが、クリアになった頭でいろいろ思い出す。
田中という眼鏡をかけた男のこと、終始揺さぶられるようにいた居心地の悪い小一時間、そして煙草とコーヒーの匂いが交わったやたらとリアルな口づけと。
愛子は大きくため息をついて、頭をかかえる。
「はぁ、結局”ファーストキス”だけか。こんなに苦労したのに、全然見合わないよ。しかも、何で寝ちゃうのかな…。まじでバカすぎる!」
情けなくて泣きたくなりながらも、愛子は現状の確認をし始める。
部屋に田中はすでにいなくて、愛子だけがベッドで寝ていた。
「出てるのかな。でも、もう帰らないとな…。」
窓から見える空は暗く、もうすっかり夕暮れどきを過ぎているのがわかる。
ベッドから降りて部屋を見渡すと、すっきりと片付いている。テレビ周りやベッド、洗面所のほうと、ポイントごとに流していくと、最後に視線を移したデスクに何かが置かれているのを発見する。
近くに寄って確認すると、デスクの上には愛子が初めてみるようなぶ厚い札束とメモ紙があった。
「何これ…?」
震える手でメモ紙を取り上げると、記されているのは携帯番号だけ。
札束に触ってみようとするが、初めての厚みに手が震えて引っ込める。
「ど、どうしよう??」
店長の橋村曰く、時間が過ぎたら帰っていいという話だった。2時間コースだったし、午後2時には来ていたから、すでにだいぶ時間がオーバーしている。
愛子はとりあえず部屋を出て、フロントに行くと、そこでもっと困ったことを言われる。
「あぁ、355室のお客様ですね。もう田中さまは退室されていますので、お連れさまがゆっくりされていっていいということです。お金はいただいていますし、明日の朝までいていただいて大丈夫ですよ。」
愛子は、急いで大金を置いたままの部屋に戻る。
本当に田中が退室しているというのであれば、このお金はどうするべきか。そんなものは考えるまでもなく、返すしかない。何もしていないにしてはもらいすぎだし、そのまま受け取るにしても額が多すぎる。幸いにも、電話番号を田中は残していったのだから。