新生活14ー南海の人々

 結局、愛子が陣の事務所を出たのは、海音でのバイトが始まる前のギリギリの時間帯。いつも通りの歩みなら遅刻間違いないが、今日は道案内がいる。
車通りに沿って海音のある駅へと向かおうとする愛子を、梧桐が違う方向へと手招く。

「こっちの階段のほうが駅には早く着ける。」

「へぇ、…こんな道あるんだ。」

まだまだ知らないことばかりのこの街。夕焼けに照らされる階段は急で、また非常に長く、住宅街のあいまを縫うように上へと続く。
梧桐は歩くのが早く、愛子よりも10段ぐらい先を行っては差が開くばかり。

「ごめん、…ちょっと階段きつくて。」

振り返った梧桐はため息をついてから、階段に座る。どうやら、愛子が回復するのを待ってくれるようだ。
愛子は息を整えながら梧桐をみると、すぐに気づかれて視線が交じる。

「何だよ。」

確かに梧桐は険のある男だが、今目の前にいるのは、峠国ホテルの部屋のなかにいた人物とは異なる。最初はかなり身構えたものの、話を続ければ続けるほど、あのとき感じた昏くて重たい印象が崩れていく。

「ちょっと、記憶と違ってたなって思ってて。」

オレンジ色の夕日を全面に受ける梧桐。その指先が、いつものように眼鏡を軽く押す。

「そりゃそうだろ。あのときはわざとそうしてたんだから。」

「?」

「圧倒的に優位に立って、相手を揺さぶる。言うことを聞かせるときの基本だろ。」

「え?な、何それ、怖い……。」

「まぁ、あの場で一番重要な情報は正しかったから。でも、準備は必要だろ。確かめるまでは、何が本当か嘘かわからないから。」

愛子は、ふとあのとき店の情報で嘘をついていたら、どうなっていたのだろうと考えた。だが、やはりそれは聞くまでもなく、また怖くて聞くことも諦める。
体も休まり、愛子は立ち上がって、ずっと言いたかった本題を切り出す。

「あのさ、梧桐くん。…あのときのことは、あの仕事してたことは誰にも言わないでほしいんだ。」

まさか、こんなところで、胸の奥そこにしまっていた記憶のひとつを知る人に出会うなんて思いもしない。しかも梧桐にどんな思惑があったとしても、愛子の初めての客で、初めてのキスまでした相手なんて決まりが悪すぎる。

「ちゃんとお金も返すし。」

梧桐のことは、まだよくわからない。でも、意外と悪い人ではないのかもしれないと願掛けしながら仰ぎ見る。
見た先の男は大柄で、間違ってでも正義の味方には見えない。でも、もしあのことが学校に知られれば、退学や停学は免れないし、逸子にも周知の事実となってしまう。それだけは絶対に避けなければならない。
座っていた梧桐も、愛子に合わせてゆっくりと立ち上がる。

「はぁ……くだらない心配するなら、早く階段上がれよ。もう遅刻だろ。」

「!」

階段を、先に歩き出す梧桐の後ろ姿。

「それに、あの金は謝礼だって言ってんだろ。しつこい。」

期待していた言葉ではないけれど、十分な答え。愛子は、やけに胸が熱くなるのを感じる。

「…、ありがとう、梧桐くん。」

愛子は先をいく梧桐を見ながら、逸子の言葉を思い出す。
ー南海はとてもいい街だよ。気候も人もね。