2月下旬。愛子の臨海高校への編入が決まる前で、南海への引越しの話も出ていない頃のこと。
愛子は、仕事先の”峠国”のビルの事務所で声がかかるまで待機していた。手元には赤い手帳があり、つらつらとボールペンで殴り書きを続ける。手帳の中身は字で埋め尽くされて、ほぼぼほ真っ黒になっていた。
そんな愛子に話しかけたのは、この店を運営している橋村という男。
「アイちゃん、今日からだね。よろしく。」
「あ、はい!お願いします。」
橋村に呼ばれ、愛子は慌てて席を立つ。
「この仕事初めてなんだっけ?まぁかわいいし、客に適当にまかせときゃいいよ。」
橋村は、適当な性分らしく、いつでもこんな感じだ。仕事に応募したときも、今日の初出勤も。でもだからこそ、愛子みたいな中途半端でももこの仕事にありつけたのは間違いない。
橋村が愛子に薄い書類を渡す。
「じゃあ、これ今日のお客の田中さんの資料ね。特別に評判いい人選んだからさ。」
手渡された資料には今日の顧客情報と、仕事現場となる峠国ホテルの情報が記されている。
それに一通り目を通してから、愛子は再び書類を机に置く。
「それじゃあ、行ってきます。」
「はいはーい。あ、もう事務所くるのはこれで最後でいいから。というか来ないでね。」
「?はい、わかりましたけど…。」
「何かわかんないことあったら、電話かメールでちょうだい。俺も忙しくて、いないこと多いから。」
気軽に笑う橋村に会釈してから、愛子は事務所を後にして、仕事現場となるホテルへと向かった。