夜、テレビを見ていた高校2年生の衣沢愛子(きぬさわあいこ)は、外から聞こえてきた声に反応する。
「愛子、カレーたくさん作ったから持ってきたわよー。」
季節は春。少し肌寒さは残るものの、暖かい日差しも増えてきた。
愛子が薄手の部屋着のまま玄関の扉を開けると、そこにいたのは叔母である神村逸子(かみむらいつこ)。
「一緒に食べよ。カレーとご飯も持ってきたから。充もいる?」
「いるよ。」
「あ、やったね!おばちゃんのカレーじゃん!」
愛子の弟ー衣沢充(きぬさわみつる)も加り、食卓を囲む3人。
みんなでカレーを食べ始めると、味はいつも通り美味しい。
「おばちゃん、いろいろありがとう。ここ1ヶ月大変だったでしょ。」
「そうそう。引っ越しも仕事も学校のことも大変だったのに、俺たちのご飯まで作ってくれてさ。」
「何言ってるのよ。当たり前でしょ。あたしは、あんたたちの親みたいなもんなんだから。」
愛子と充の両親は、愛子が中学に上がる前に交通事故で逝去。その後、衣沢姉弟を引き取ってくれたのが、母親の姉であった逸子だ。
それからは逸子の家で暮らしながら、愛子は周辺の中核都市・谷川の中学・高校に進学。だが去年逸子が離婚して、この4月からは逸子と衣沢姉弟は、海辺の地方都市・南海へと居住を移した。
「ま、南海はとてもいい街だから。気候も人もね。何よりあたしとあんたたちのママが、学生時代を過ごした思い出の場所でもあるし。」
明日からは、愛子も充も南海の新しい学校への編入が決まっている。
「姉ちゃん、じゃあ俺先行くわ。」
「いってらっしゃい。」
朝、身支度を整えた充は、編入先の小学校に愛子よりも先に出かけていく。
愛子も身なりを整え、最後にえんじ色のブレザーを羽織る。玄関の近くに設置した鏡の中には、小綺麗にまとめた学生らしき女がいるのを、他人事のように見つめた。
高校2年になる愛子がこれから通う臨海高校(りんかいこうこう)は名前の通り、海に面している。
学校が遠い充とほぼ同時刻に出たため、愛子は随分早くに学校までついてしまい、学校前の海辺で立ち止まる。近くにあったベンチに座り、ゆったりと海を見ながら時間になるのを待つ。
「きれいだなー、海。」
今までは谷川という内陸にいたため、海を見る機会が少なかった愛子。
今は忙しい朝の時間で、たまに人がいるにしても、犬の散歩をしている人ぐらい。ほぼ独占する海の風景はあまりにも贅沢で、見ていると、編入を前に緊張していた気持ちも不思議と落ち着いていく。
愛子が初登校すると、すでに学内は学生たちがちらほら行き交う。
臨海高校は自由な校風らしく、賑やかそうな雰囲気に満ちていた。茶髪の子、金髪の子、ばっちりヘアメイクをしている子、リュックの子、短いスカートの子、ブレザーを着てない子、パーカーの子、それれぞれお気に入りのバッグを持つ学生たち。
通り過ぎるそんな在校生を見ながら、愛子は職員室にたどり着く。
「こんにちは、今日から編入の衣沢です。」
受付の女性が愛子の顔を覗く。
「あぁ、はいはい。辻元先生ー、転校生きましたよー」
呼ばれて愛子のほうに来たのは、若い女の先生。
「エザワさん?おはよう!担任の辻元(つじもと)です。よろしく。」
愛子は、エザワ呼びに驚き一瞬止まるが、すぐに否定する。
「先生、私、衣沢(きぬさわ)です。」
「え!?あ、ごめんごめん!衣沢さんね、オッケーオッケー。じゃあそろそろ時間だし、早速クラス行こうか?」
職員室から出てきた担任とともに、愛子は校内を歩き出す。
「衣沢さんって、もともとどこいたんだっけー?」
「谷川です。」
「あぁ、そっか。じゃあ、あんまり南海のことは知らないよね。南海は、わりと元気の良い子が多くてね。あ、でも悪い意味じゃなくて。皆、和気藹々としてる感じ。」
愛子は、先ほど見かけた生徒たちの姿を思い出す。
「で、うちの学校は全クラス、海に面してるの!いつだって視界には海が入ると思うわ。」
「きれいですよね、海。」
「夏は、けっこう賑わうことも多いわよー、特に夏休みシーズンね。あと、そーね。学校は校舎が建て替えが3年前に行われたばっかりだから、全体的にきれいかな。トイレもすっごいいいと思う。」
愛子は学校を見渡す。きれいで清潔感のある校舎は現代的で、古くて暗いイメージはない。
そもそも南海自体が、近年再開発が著しく、整頓された近代的な都市だ。公共施設や駅前を中心とした街の発達は想像以上だった。谷川などの第一級都市と比べることはないが、それでも住みやすい街であるのは、3月中旬に愛子が越してきてからすでに十分感じていた。
担任は、歩きながら話を続ける。
「学校は3学年で、それぞれA~E組まで。衣沢さんは2-Cになるんだけど、校舎は東と西で分かれてて、ABクラスが東棟で、CDEクラスが西棟よ。部活も一通りあるから、何かやるつもりはある?」
「アルバイトしてるので。」
「あー、なるほどね。まぁ、うちは見ての通り校則ゆるいからね。髪型も服装も自由だし、落第にさえならなければ。あ、あとは、“実行部”のことも話とかないとかな。」
聞きなれない言葉に、愛子は担任を見る。
「他校でいうと、いわゆる生徒会みたいな感じ。学年別ってところも特徴かな。それで、生徒会よりももうちょっと強いというか、なんというか。」
「?」
「まぁ、過ごしていくうちにわかると思うからさ。」
担任の簡単な説明に、きっと説明するのが面倒なんだなと思い、愛子も適当に相槌を打つにとどめた。
やっとついた教室に、愛子は、担任とともに入る。教室に入った瞬間、愛子は窓の向こう側にある海の眩しさに目を細める。室内に暗さは全くなく、開放感にあふれていた。
教室内はというと、想像以上に騒がしく、空いてる席もちらほら。
「はいはーい、皆んな。着席ね~こっちは、編入生の衣沢愛子さんよ!」
担任の声がけに、やっと半分ぐらいが応じて、愛子に集まる視線。
「衣沢愛子です、よろしくお願いします。」
「じゃあ、衣沢さんは、えーと、あ、芥川くんの隣か。しかも、今いないな。」
「こっちですよー。」
一番後ろで、担任が指さした方とは逆の席に座る背の高い女子が手を挙げる。
「あ、そう。反対側は、野沢さんね。良かった。じゃあ、あそこに座ってくれる?」
愛子が一番後ろの席まで行くと、隣に座る長身女子がにこやかに話しかけてくる。
「よろしく、衣沢さん!私、野沢直子(のざわなおこ)っていうんだ!」
愛子は、小さく息をついてから応える。
「よろしく、野沢さん。」
四月一学期初日。ここは、同じ時刻の臨海高校の東棟4Fにある海の見える部屋。
そこは一般的な教室ではなく、ソファやテーブル、キッチンまで備え付けられた、おしゃなスペース。だが、壁には、その雰囲気を台無しにする”臨海実行部 禁煙”と書かれた大きな段幕が掛かっていた。
室内にいるのは、同じく場に似合わない大柄な男子生徒2人。眼鏡をかけた梧桐秋也(あおぎりあきや)と、さらにでかくて金に近い明るい茶髪が目立つ芥川純(あくたがわじゅん)。
中央にある大きなソファに座りながら書類を見ていた梧桐が、芥川に声をかける。
「芥川、この編入生、写真は?」
「あぁ、なんか3月中旬にいきなり編入が決まったらしくて、用意がないみてぇだ。」
「ふーん。あのタヌキ爺、何も言ってなかったのに。…ま、どうせまた縁故だろ。」
梧桐は、編入生の資料を見ながらふと思い出す。
暗い部屋にいた厚化粧が似合わない女。手帳に文字を書き足す震えた指先と、情緒不安定な眼差し、…そんな記憶にふけろうとする梧桐だったが、芥川の言葉が現実に呼び戻す。
「あ、そういや、昨日むっちゃんから電話があって、今月のソワレでもう一人ルパスのホール欲しいっつってたな。」
梧桐は指で眼鏡を押してから、編入生の資料を再び確認する。
「ソワレか。まぁ、年度始めで、スポンサーも集客エリアも広くなったしな。」
「その分、バイトが間に合ってないみたいで。ったく、むっちゃんも外注しちまえばいいものを。」
「陸奥は、面倒を好んで取るやつだからな。何人か、金欲しそうなやつのリストアップしとけよ。いつも通り、口固くて、気きくやつな。接客経験があって、料理できる奴なら上出来。今回は時間もないから、臨海生でもフリーターでもどっちでもいい。来週までに陸奥に連絡する。」
「あぁ、わかった。」
梧桐は今もっている編入生に関する書類を、芥川に渡す。
「ついでにこれ。多分、金欲しいやつだろうから。」
「おぉ!わかった!そういや、この編入生、俺の隣の席らしいわ。美人かな~。」
鼻を伸ばす芥川に舌打ちしてから、外の海を見つめる梧桐。
そして再び、さきほどまで頭をかすめていた女のことを思い出す。
名前は、そう。
ーえ、エザワ、あ、ま、マイコ…。
自分の名前を言い淀みながらいう声が、梧桐の頭のなかで再生される。
「“エザワマイコ”ね。」
「?転校生は、衣沢愛子(きぬさわあいこ)だよな?」
「そうみたいだな。」
梧桐は、首をひねる芥川を無視して、再び面前に広がる海の向こう側を見つめた。