新生活10ー峠国での出会い②(編入前の話)

 愛子は、峠国ホテルのエレベーターに乗り込む。
シティホテルにありがちな狭いエレベーター内はひとり。振り返って、暗い鏡に映る自分を見ると、同じように陰鬱とした表情の女がいた。
自分でした厚めのメイクは、正直浮いてるし、似合ってないし、上手でもない。でも、今はいつもとは違う、と言い聞かせるのには十分。たとえ本物ではなくても、ただの虚勢であってもいいし、一歩だけ踏み出す強さをくれる。

 あっというまに3Fに到着して、エレベーターを降りる。重い足取りで、部屋番号の案内にしたがっていくと、すぐに辿りつく。
窓さえないホテルの廊下、目の前にあるどっしりと重そうな扉のすぐ近くにあるインターフォン。
しばらくただ固まっていると、ふいに開いた目の前の扉。もちろん、それは愛子が開けたわけではなく、部屋のなかにいた眼鏡の男が開けたのだ。

「!こ、こんにちは!アイです。田中さん、ですか?」

眼鏡をかけた男ーもとい田中は、無言のまま愛子を一瞥すると中に入るよう促す。
愛子は、少し焦せっていた。自分のことで手一杯になって、さきほど事務所で目を通したはずの”田中”の顧客情報がまるっと頭から抜け落ちている。資料では田中の写真を見た気がするが、眼鏡をかけていたか、かけていないか、どのぐらいの年齢だったのかすらも思い出せない。
ただ、小さな違和感だけが遠くのほうで警鐘を鳴らす。
目の前の”田中”はというと、大柄で年齢は20そこそこぐらい。普通の格好をしているものの、白いトレーナーには『夢』と小さく印字されているのが、冗談なのか本気なのかわからなくて余計に愛子の不安を煽る。
そして、そんな服を着ているのにも関わらず田中は、にこりともせずに全く友好的でない。むしろ、こちらを見る目はひどく昏くて、じっとりと重苦しい。
愛子は、田中の視線から逃れたくて部屋のなかを見渡す。普通のビジネスホテルのシングルルームで、狭い窓は、身を乗り出せないように格子がはめられていてまるで牢屋のよう。
でも、唯一の救いといえば、部屋のなかに充満するコーヒーの香りだ。

「ミルクと砂糖は?」

「あ、……じゃあ、ミルクだけお願いします。」

すぐに差し出されたミルク入りコーヒーは温かい。田中が飲んでるのをみて、愛子も口をつける。緊張で味はわからなかったが、意外だったもてなしに息を吐く。
ベッドのほうにいる愛子と少し距離をとり、田中はデスクの椅子に座って煙草を吸いだす。
何かするのでも話すのでもなく、ただただゆっくりと一服中。愛子はコーヒーを飲み終わると、手持ち無沙汰となり、間に耐え切れず話しかける。

「あの、始めますか?」

田中は、眉間にシワを寄せてため息をつきながら、愛子をしっしっと手払いする。
愛子は、指示に従い、黙ってやわらかなベッドの上に腰をかけるが、不安定な柔らかさに緊張が余計に増す。

「いくつか、聞きたいことがある。」

「…、何ですか?」

「事務所の連絡先は?店長の携帯でもいい。」

田中の作り上げた重たい雰囲気に愛子は少し構えたものの、予想外の質問に気が抜ける。

「わからなくなっちゃたんですか?」

「あぁ。」

「えーと……、」

愛子は鞄から赤い手帳を出し、店の情報を確認し、手帳の空いているスペースに書き出す。

「事務所の場所は?」

「?え、駅前のところにあって…。今日はそこから来たので、住所も確か。」

田中に言われるがまま、愛子は事務所の場所も書き足すが、少しして手が止まる。
橋村からは、全てオンライン上でやりとりが完了すると聞いていたし、客が事務所にまで行く理由は何なのだろうか、愛子には検討がつかない。従業員にすら、あまり来るなと言っていた事務所を果たして記していいものなのかと。
愛子は手を止めて、ちらりと田中を見ると、ぞっとするような冷たい目つきでこちらを監視している。尋常ではない田中の雰囲気に、今ここで書かなければ、危険な感じがするのは鈍い愛子でもわかる。それに、これは常連客の”田中”だ。そう言い聞かせて正当化する。
愛子は、書き終えた情報を手帳から切り取って田中に渡す。

「もし嘘をついてんなら、その時点で責任はとってもらうけど平気か?」

「え?ま、間違ってはないと思うんですけど…。」

愛子は、頭が痛くなる。想定していたシーンとはかけ離れた状況に。
そして、そんな愛子の苦悩をよそに、田中主導のもと、もっとおかしな展開になっていく。

「年齢は?」

「え?」

「無事に仕事終わらせたいなら、ここで話していいのは本当のことだけだから。」

重苦しい雰囲気の田中から、愛子は目を逸らす。

「に、20……かな。」

「“かな”はないだろ、かなは。…はぁ、もう一度聞く、年齢は?」

じろりと睨まれて、慌てて訂正する。

「じゅ、18です。」

「名前は?」

「アイ……ですけど。」

「ふーん。ま、聞き方が悪かったな。もっとわかるように言うと、フルネームはって聞いたほうが良かったか?」

愛子が気まずくなるほどの、見透かす眼差しと有無をいわせぬ圧力。ただわかるのは、目の前の男を怒らせるのはあまり良くないということと、本当のことを告げるのは危険なこと。

「え、エザワ、あ、ま、マイコ……」

田中が再び、眼鏡を指で押す。癖のようで、何度かそうしている姿が愛子の記憶に刻まれる。

「エザワマイコ、ね。…本当に?」

殺してきそうなぐらい物騒な田中の視線を受けて、愛子は何度もうなずく。思わず口走った名前が、たまに間違われる苗字の読みで本名と似てしまったが、一度出た言葉は取り消せるはずもない。
愛子が心配しているのをよそに、当の田中の関心はスマホに移り、部屋にはまた嫌な沈黙が流れる。

「…、じゃあ、始めますか?」

愛子は、このまま田中のペースに飲み込まれていいようにされるのは嫌だった。意を決して服に手をかけて脱ぎ始めれば、さすがの田中の目も愛子に向く。
でも田中は変わらぬペースのまま、脱ぎかけの愛子を軽く制す。

「待て。」

田中は、それだけ言うと洗面台のほうにいってしまう。田中がいたところでは吸いかけの煙草が、灰皿に傾けられてあって、落ちそうな不安定さがやけに気になる。
田中はすぐ戻ってきたが、手にはぐしゃぐしゃに丸められたティッシュ。
愛子の近くで立ち止まった田中はやはり大柄で、わざわざかがみ込むようにして視線を合わせてくる。初めてはっきりと見えた田中の眼鏡の奥にある瞳は、予想外にきれいな色合いで色素が薄いのが不思議と印象に残る。

「相手してくれんなら、まずその似合わない厚化粧落としてから頼むわ。」

次の瞬間、愛子の顔に押しつけられたのは、先ほど田中が洗面所から持ってきたティッシュらしきもの。濡れているのかひんやりとした感触で、肌に遠慮なく擦りつけてくる。

「!ちょ、ちょっと!っやめてよ!」

突然のできごとに抵抗するうちにもつれて、ベッドに転がり込む愛子と田中。
ベッドの上で、知らない男が覆いかぶさっているにしては、あまりに想像とかけ離れていて、ちっとも色っぽくないやりとりが続く。

「全然落ちねーな。厚すぎんだろ。」

「そ、そこまでじゃないし!い、痛いってば!」

「暴れんな、やりにくい。」

「そんなの、できるわけない!や、…とにかく、っどいてよ!」

「頼まれてどくようなら、最初からやってないんだよ!」

何度かそんなやり取りをしていると、愛子の力で到底押し返せなかった田中が、満足したのか諦めたのか捨て台詞を吐いて離れていく。

「チッ、全然だな。」

愛子はというと、初めての出来事に心臓がバグバグしながらも、田中に遅れて上体を起こす。
恐る恐る顔に触れると、ベタっとした手触り。それは水ではなく、どちらかというと油のようで余計に嫌悪感でいっぱいになる。

「っ……」

愛子は顔と同じようにベタベタになってしまった手を見ると、震えが止まらない。
田中に対する畏れよりも、はるかに、踏みにじられた現状に憤りと落胆と失望と、さまざまな感情がないまぜになる。

「な、何で、こんなことっ…?」

元凶でもあるはずの田中はすでに我関せずで、先ほどと同じようにスマホをいじりながら吸いかけの煙草に再び手を伸ばす。

「だから言ってんだろ、似合ってないって。」

なんてことはないというような田中の物言いに、愛子は頭に血がのぼる。

「っ似合ってても似合ってなくても関係ないじゃん!…私がっ、どんな思いでここに来たのかも、何も知らないくせに!」

何日も眠れぬ夜を過ごして、あらゆる事態を想定して、愛子はこの日に備えた。やっと、つまらないことを気にしなくなれるのだと言い聞かせて。
でも田中は相変わらず冷め切った目で、遠慮せず切り捨てる。

「?そんな馬鹿みたいな事情、知るかよ。」

愛子は息が止まる気がした。たった一言、それだけで全てを否定される。自称だろうと頑張ってきた人に送る言葉としては間違いなく最低だ。
普通に考えれば田中のいうことは正しいのだろう。そんなことは愛子だってとうにわかってる。

「っ、…そんな、正直に言わなくてもいいのに。」

バカみたいでもそれが全てで、それしか見えない。辛いことがあっても、嫌悪でどうしようもないことがあっても、ただ生きて行くためのバランスを取りたかっただけ。
似合わないメイクをどんなに厚くしても、高いヒールを履いて背伸びしても、どんなに格好をつけても、結局はただのちっぽけな自分だと気づいてしまったら、そんなカッコ悪くて恥ずかしいこともない。