月曜日の朝になり、愛子は、登校前に海を小一時間ばかり眺める。
「きれいな海。」
“学生生活、楽しんでね。”
逸子の言葉は、ときに愛子にとっての呪縛にもなりうる強力なもの。そうしなけばいけないと言い聞かせるように戒めた。
でも3月中ばに南海に来てから、愛子の想像以上に穏やかな時間が流れている。海音での真知子との出会いも、同い年のマオ姉弟がいるマオ牧場で働きだしたことも、そして臨海高校に編入したことも、驚くほど愛子に緩やかなプラスをもたらす。
正直、愛子はまだ少し怖いことがある。好意が、いとも簡単にひっくり返されるのを見たことがあるから。
向けられる冷ややかな視線と、ひそひそと陰で笑う声が脳裏にこびりついてまだ離れない。呼びかけても反応すらなくなって、たくさん人がいる教室なのに、世界で一人ぼっちになってしまう。それは迷路に迷って、抜け出せなくなったような絶望感にも似ていた。
けれど、ここは谷川とは違う穏やかな海の街。何より、南海には誰も愛子の過去を知る人はいない。
昼休みになれば、愛子は仲良くなったクラスメイトの真木京子や野沢直子、木村マミとともにお昼ご飯を食べ始める。
「今度、愛子も学食行ってみな。東棟1Fにあるから。めちゃくちゃ安いのに美味しんだよ、うちの学食。」
「東棟って、西棟と同じ造りなの?」
「うん。でも、クラスが2クラスしかないからね。その分、学食とか購買とかもあっちにあるの。」
東棟と、愛子たちのいる西棟に分かれている臨海高校。3mほどの渡り廊下でつながっているだけのため、離れているわけではないが、一日を過ごすに当たってトイレも下駄箱もその全てが各棟に揃っているので、用事のない愛子は今のところ特にいく必要がない。
4人でいろいろな話をしていると、あっという間に時間は過ぎ、愛子自身も持参したお弁当を食べ終わる。トイレでも行こうと席を立つと、先ほど話題にもなっていた東棟の学食に行っていた芥川と日比野が疲れた顔をして帰って来たのと出会す。
「お、衣沢。昼メシ食い終わったんなら、そろそろいいか?梧桐が待ってんだよ。」
「怖いったら、本当ねぇよ。っていうか、ここ1,2ヶ月機嫌悪い気がすんだよなー。」
ブツブツいいながら帰ってきた男二人。でも呼び掛けられた愛子は、首をかしげる。
「えーと、…何の話だっけ?」
芥川と日比野が一斉に突っ込みを入れる。
「いや、先週話したソワレっていうイベントの仕事の話!忘れたのかよ!」
「先週衣沢がそそくさと帰るから、俺らがどんだけ苦労したことか、梧桐をなだめるのに。」
そう言われてやっと愛子は、先週二人が話していたイベントのバイトの話を思い出す。
「あ!そういえば。忘れてたや、はは、ごめんね。」
そんな愛子を後ろから不安そうに見るのは、京子だ。
「ねぇ、芥川さ、ソワレのバイトって梧桐に会わないとダメなの?」
「あぁ、うん。人事担当だから、一通り目通してくスタンスみてぇだ。意外とちゃんとしてるからなー。」
「愛子の心臓に悪くない?いきなり梧桐とか。」
「まぁ、それは否定はしないけど、会わないわけにはいかないんだよ。梧桐の名前で推薦するし。」
よくわからないものの、二人の話題は”梧桐”の評判を話している様だ。
「あおぎり、くんっていう子、怖いの?」
愛子以外の全員がハモる。
「「「怖いどころじゃない」」」
5人がハモる声に、さすがの愛子も驚く。
だが、そこで日比野と芥川がフォローに回る。
「まぁ、でも意外と面倒見いいやつだよ。敵に回さない限り、マジで頼りになると思うから。」
「そこだけは保証すんなー。昔は一つも話通じなかったけど、最近はちょっとだけ小耳に挟んでくれるようにもなったし。」
「それな。」
その話しに、誰よりも疑いの眼差しを向けるのは京子。
「あの梧桐だよ?優しい訳がない。」
「まぁ、優しいとは俺も言ってない。」
「あ!お前、言いつけてやるぞ~。」
「やめろよ!」
じゃれ合う男二人だが、日比野が愛子に真剣な眼差しを向ける。
「あ、でもこれだけは守ったほうがいいな。」
「ん?」
「絶対嘘はつかないことと、した約束は必ず守ること。どんな小さい嘘でも、どんな軽い口約束でも、梧桐は守られないのが我慢ならないみたいだから。」
「へぇ…?」
「まぁ、それは平気だろ。面接担当とはいえ、そこまでの接点はねぇはずだから。」
芥川の言う通りで、愛子がまだ顔も知らない相手につく嘘などはない。
このとき、愛子はとても軽い気持ちだったのだ。だって逸子のいう通り、南海はいい街だったから。
だから、これから起こりうる出会いも、南海の地に深く根付く”陣”というコミュニティのことも、すべてがもっと簡単なことだと考えていた。