時とところを戻して、4月二週目の臨海高校東棟4Fの海の見える部屋。
とりあえず目の前の男ー梧桐は、相変わらず殺してきそうな勢いで、愛子を見てくる。彼が怒る理由について、真っ先に思いついたのは、ホテルの部屋に置かれていた見たこともない大金のこと。
「ごめんなさい!本当に、お金はちゃんと返そうとしたんだけど、連絡もつかなかったし!それに申し訳ないけど、お金は少し使っちゃったから、すぐには全額は返せそうもなくて。でもっ、絶対に返すし、たぶん、半年か1年後ぐらいまでには!」
言いたいことをなんとかしゃべり終えた愛子。
伺うように梧桐を見ると、いつの間にか煙草をくわえている。後ろには“臨海実行部 禁煙”とでかでかと掲げられた弾幕があって、そのアンバランスさに奇妙な違和感を覚える。そもそもここは学校だった気もする。
梧桐はというと、ふうと一息つく。
「何勘違いしてんだか知らないけど、あれは情報料だよ。」
「情報料?」
「おかげで、すぐに店は潰せたし、橋村のやつにも落とし前つけさせることができた。」
「店を、潰した?」
「橋村っていう店長気取ってた男いたろ。あいつは俺たちの仲間で、独断で危ない橋を渡ってた。こっちの迷惑になることも考えないでな。だから、責任を取らせたんだよ。」
愛子は、梧桐たち側の成り行きを聞いて、掛け違えたボタンがやっと正しく組み合わさる。
「だから、」
あの後、橋村に全く連絡がつかなかったのも、事務所が忽然と消えたのも説明がつく。
梧桐は愛子に店の情報をいくつも聞いてきたが、全部そのためだったのだと理解が及ぶ。そして、それが全体のトリガーともなったのだ。
「あの、なら、店長の橋村さんはどこに?」
「言っただろ、責任とらせたって。自分のやったことと言ったことに、責任持つのが人間だろ?」
自分に言われてるのか、橋村のことを言っているのか混乱する愛子。
対して、いつも通り眼鏡を指で押す梧桐。
「で、そろそろ思い出したか?自分がしたこと。」
窓からは日の光が入って、梧桐の眼鏡にはうっすらと困惑している愛子が映る。
だって愛子は、お金のこと以外であれば、梧桐に迷惑をかけた覚えがない。むしろ、散々嫌な目を見せられたのは、自分のほうだとすら思うのに。
見合う二人。相変わらず梧桐は怖いものの、愛子は首をかしげるしかない。
「あの、ちょっとわからないんですけど……。」
「はぁ……名前は?」
「え?」
「な・ま・え」
「?衣沢愛子ですけど。」
梧桐の目元が引きつるのがわかって、愛子は反射的に身構える。
「今更、本名言えって言ってんじゃねぇんだ!阿保なのか、お前?あのとき、俺に嘘の名前を教えたよな?エザワマイコじゃないじゃねぇかよ!」
意外と、何でもないことに怒ってた梧桐に驚く愛子。
「あ、えーと、……ごめんなさい?」
「何で疑問系なんだよ。」
「そ、そういうわけじゃ。…でも、私の名前なんか本名だろうと仮名だろうと、あまり関係なさそうっていうかー…」
ちらりと梧桐を伺いながら、小さくつぶやくと、梧桐は再びため息をつく。
「まず、何で連絡してこなかったんだよ?番号なら、あそこに残していっただろ。100万っていう大金を残していった上客だぞ、しかも最後までしてもにのに。礼か質問の連絡ぐらい入れんだろうがよ、普通。」
「しましたよ。3回、4回ぐらいかな。」
梧桐の冷ややかな視線が愛子に刺さる。
「嘘つくな。」
「嘘も何も。公衆電話からかけたけど、いつも留守番にもつながらないし。」
「なんで公衆電話なんだよ。掛け直せないだろ?」
「携帯は持ってなくて。」
「持ってないって、……。はぁ、マジかよ。」
コクリとうなずく愛子。
呆れながらも、どこか腑に落ちたような表情の梧桐。
「橋村のバカが悪いにしても、結局、仕事を奪ったわけだろ。その後の面倒ぐらい、みるもんだろ、普通。だから連絡を待ってた。事務所にあった登録情報も嘘ばっかだし。そんで、もし来なかったときの保険が名前だった。なのに嘘ついて手間とらせて、厚意を踏みにじりやがってよ。」
愛子は、舌打ちをしながら不機嫌そうにする梧桐を見つめる。予想外の言葉の連続に少し困惑するが、それはいい意味での驚きだった。
梧桐は席を立つと、奥の机から書類を持ってくる。
「で、やっと今日の話につなげられるわけだ。…一応聞くけど、まさか、あの仕事続けてるわけないよな?」
愛子は視線を伏して応える。
「あのときはそうするのがいいって、勝手に思い込んでただけだから。」
「なら良い。もし金が必要なら、いい話なはずだから。」
「え?」
「もっと前から手伝いができれば、10は行く。運営のやつらに気に入られれば、もっと行くかもな。」
「そんな、」
仕事内容の書類を見ても、やはり、ただのホールの給仕系アルバイトにしか見えない。
「……、なんか危ないことがあるとか?」
「前やってたことに比べれば、健全だよ。」
返す言葉もなく、愛子は黙りこくる。
「そのぐらいでかいイベントなんだ。スポンサーも客も多いし、集客エリアはだいたい県全土。まぁ賃金がいいぶん、大変さは伴うけどな。関わってるやつらは、面倒なやつばっかだし。」
「はぁ。」
「だから、人選もそれなりにこだわってる。」
「…、私なんかでいいの?」
「芥川と日比野が推して、俺も賛成してる。もし合わないなら、他の仕事の宛もあるし。ここらへんに住んでるなら、わりのいい働き口は紹介できるから。」
念を押すような口ぶりに、愛子は喉元にぎゅっとこみ上げるものを感じる。
「…、うん、ありがとう。」
いまいましげに言う梧桐。
「チッ、あんな似合わねぇ厚化粧でブルブル震えてる女は、客のいい迷惑なだけだから。」
「はは、そんなに変だったかな?あまり上手じゃないなぁとは思ってたけど。」
「今日みたいに、何もしてないほうがいいだろ。」
少しだけ硬い指先が、頬に触れて、愛子はハッとする。
「え?」
愛子が驚いて見上げると、梧桐とばっちり視線が合う。100万という大金のことや、当時の梧桐が怖すぎて忘れていたが、あの日は彼が自分の客だったことを改めて思い出す。
愛子が、半歩遅れても、でもまだ反応できずにいると。
そのとき、ガラっと扉が開く。
「こら、梧桐ー!女の子に暴力……え、あれ??」
愛子が驚いて扉のほうを見ると、入ってきたのはきれいな長髪を持つ背が高い女の子。
その後ろには、心配そうにあたふたしている芥川と日比野。さらに死角から出てきた小さい女の子は、次の瞬間、目にも留まらぬ速さで突撃してきて、梧桐に不意打ちの頭突きを喰らわした。